手をつなぐ

手をつなごう。

今年の夏はとても素敵な事と
とても辛い事が沢山あった。

ある夜妹から電話がかかってきた。
“お母さんが倒れちゃった”
家族からの電話はいつだって怖い。

翌日朝一で地元の病院へ向かった。
酸素マスクをつけている母は
元々ガリガリの体型なのに、
更に小さく弱ってみえた。

母は大腸癌だった。

母の居ない未来を想像するだけで
嗚咽が出そうだった。

母は昔から見栄っ張りで我慢しすぎる
性格だった。
今回もそうだった。

数年前から痛かったのに
我慢をしすぎ
大腸の入り口にはとんでもない大きさの
癌があったそうだ。

お見舞いに行って少しすると
母の容態が悪くなり
顔が真っ青になり痛い痛いと
叫びだした。

おれは死も覚悟した。

その後なんとか持ち直し
その夜を越えた。

数日後手術も決まり
手術が成功する事。
転移をしていない事を
心から願った。

時を同じくして
他にも不幸や別れが続いた。

そんな日々を越えて行く中
急に自分がこの世界でたった1人に
なってしまうような強烈な孤独感に
襲われた。

とても怖かった。

今年の夏、
toitoitoiというアーティストに
トラック提供したアルバムが
リリースされた。

そのリリースのお祝いの日の事。
多分おれはちょっと壊れていた。

色々な話をボーカルの岸川さんや
みんなは聞いてくれた。

多分おれの孤独を感じてくれた
岸川さんはおれの手を取り
手を繋いでくれた。

そしてその隣の人も繋いでくれて
みんなで手を繋ぎ、大きな輪になった。

ギターのムラコシくんは
手を繋いでくれなくて、
遠くでエイフェックスツインの顔で
笑っていた。

その時
“ああ自分は1人じゃないんだ”って
少しだけ思った。

本当は嬉しくて、あと少しホッとして
泣きそうだった。

人の手というのは
感情や優しさや色々な物を
持っている。

ありがとうと心から思った。

母の手術は成功して
退院もできた。

母は美容師で休みが合わず
人生で一度も一緒に旅行に行った事が
無い。

もう少し良くなったら
一緒に旅行に行きたいと思う。

そこで手を繋いで
少し歩きたいと思った。

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電話

大阪から東京へ来た
音楽の仲間との呑みの後、

心がざわつく電話が来る。

うちの母親は夜中の電話は
いつでも怖いと言っていた。

その大体が悲しい内容の
電話だからだ。

落ち着かない心
考え込む頭
車窓が映しこむ嫌いだった街
大切な人達の久しぶりの顔

病院の前では
祭りがやっていた。

昔だったらこんな時に
祭りなんてやって
はしゃいでるんじゃねえよ
ってイラつく事もあったが
よくも悪くもその気持ちは
今の自分には無くなってしまった。

一気に老け込んだように
見える母の顔

再開が久々だったのか
無理をしてしまい
彼女の体調が急変してしまい
こっちも生きた気がしなかった。

助けてくれる叔母の顔

これからの話

書類の手続き

帰りの車内の
大丈夫と絞り出す妹の声

徐々に近づく東京の街並み

メールくれる母の言葉の弱さ

メールくれる母の優しさ
こんな、時なのに。
一回一回のメールで涙が止まらない

イヤホンから流れる
ドブロクのピミツ

いつだっていつだって

おれは大切な人に

恩返しができていない

大切な人には
最大に幸せになって欲しい

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wake up festival

永遠に音楽を続けられる訳ではない
それはわかってる。

“wake up fes”という音楽イベントに
Genius P.J’sで出演の為
一年ぶりに台湾へ向かった。

wake up festiveは
色々とアーティストへの配慮が
素晴らしくスタッフの方々の対応や
ケータリングも美味しく
会場もお客さんも若い力に溢れてて
このフェスのが素晴らしい事が
ライブをする前から感じていた。

色々あり昨年のspring screamでの
動画と今年のフェスのトレーラーを
作ってくれたseanというカメラマンに
撮って欲しいとお願いした。
急遽になってしまったのに彼は快く
依頼を引き受けてくれ再開を果たした
素晴らしい時間は過ぎていた。

が、雲行きが怪しくなってきたのは
お昼過ぎ位だったろうか。

文字通り、空には黒い雲がかかり
それは大雨とカミナリを齎し
会場はとても荒れていた。
私達のステージは野外だった為
影響はモロにくらう。
案の定ステージでの演奏は
ストップしていた。

ステージのスタッフに話を聞くとこれ
以上続ける事は難しいと言っていた。

楽屋に戻ると可愛らしく笑顔の素敵な
とても感じ良い日本語の出来る
スタッフの子が微妙な表情で
私達の席へ来た。

“天候の為ライブをキャンセルするか?
遅い時間でもいいなら他のステージで
ライブをするか?”選択を求めてきた。

chamoisは即決で
“遅い時間でもライブはしたい”
と伝えた。

1時間程の調整の後私達は
屋内の一番遅い時間へのステージへと
変更になった。

出演時間を見ると24時。
終電は無い時間だった。

昼間に会場と出演時間が書いてある
フライヤーを配りまくったのも無駄になり、人も殆どいないだろうと落胆していた。

カメラマンのseanにも
帰れなくなるから折角来て貰った中
申し訳ないんだけど、
今回は無しにしようと伝えた。
“僕はGenius P.J’sのファンだから
帰れなくなっても撮るよ。
近くにホテルも取れたしね”
と、言ってくれた。

彼の優しさとどこにもぶつけられない
憤りでとても辛い気持ちでいた。

リハーサルの時間
やはり会場には人が殆ど居なかった。
それでもわざわざこの時間まで
残ってくれたみんなに全力で
音楽を伝えようとようやく振り切れた

本番が始まると
自分が想像した以上の人達が
会場に来てくれた。

昼間にフライヤーを受け取ってくれて
絶対見にいく!と言ってくれた娘達や
仲間のバンドの姿も見えた。

夢中でライブをした。

最中トラブルもあったが、
それすら良い流れになっていた。

あの会場にいる人達全員で
Genius P.J’sのライブをしていると
感じていた。

ライブ後、ドラムの祢津くんが
“日本では出来ないライブでしたね”
と言っていたが本当にそんなライブだった。

ライブ後遅い時間なのに
気持ちを伝えに来てくれるみんなに
泣きそうになった。

今回関わってくれた方々
助けてくれた方々。
ネット上で応援してくれた方々に
心から感謝してます。

来年リベンジしたい。
強く思います。

音楽を続けて行くのは
本当に難しく、それは年々体と
気持ちで感じている。

でもこの素晴らしい時間を
音楽で共有できている感覚を
おれはGenius P.J’sのメンバーで
出来るだけ長く続けていきたい。

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みんなの戦争

ドブロクというバンドの新しいCD
“みんなの戦争”のアレンジと楽器提供を
数曲させて頂いた。

私は中学生の頃とても仲の良い友達がいた。彼とは学年が変わっても
部活が違くても関係は変わらず
休日は私の家でカップラーメンを買ってきて、残ったスープにご飯を入れて食べる位
仲が良かった。

しかしある朝学校に行きいつも通り
話かけると何も答えてくれない。
それどころか露骨に避けられていた。
シカトが始まったのである。

私は彼に何か悪い事をしてしまったのかもしれない、何をしてしまったんだろう。と考えたり、彼の家に直接行って謝ったりもした。
が状況は変わらなかった。

結局それは卒業まで続き中学卒業まで
彼と話す事は出来なかった。

その日々はとても辛く学校へも
行きたくなかったし、現に休みがちだった。
(この頃ギターを購入してそれに夢中だっというのもある)

別々の高校になってからも
この事は私のこころの端っこに
モニョモニョ感として残り続けた。

そんなある日彼が甲子園をかけた一戦
があり友達家族と応援に行った。

エースピッチャーだった彼は9回を投げ抜き見事出場を決めた。

泣いて喜んだ。

でもこころの端っこには
どうせ嫌いなおれに喜んでもらっても
嬉しくないだろうなと思っていた。

ある日彼はお礼をしに私達に逢いに来た。

そして彼はここ数年の事が何なかったのように普通に話かけてきたのである。その後仲は戻りそこからは普通に話が出来るようになっていたが、あの期間はなんだったんだ?
と謎は残ったまま。

一度だけ彼にこの件について
聞いて見たことがあった。

彼は”まぁ。。”と言い何も話して
くれなかった。

おれのこころの端っこにある
モニョモニョはホコリを被ったまま
今もまだ居続けている。

戦争というものは形が色々あって
当時のおれはこんな戦争をしていた。

日々人は戦いながら生きていて
色々な戦争を抱えていると思う。

大きい、小さいは無い。

完全に無くなる事はないけれど
それぞれの戦争が出来るだけ
少なくなって欲しいと心から思う。

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心に膜をはる

久々に心に膜をはった。

コミニュケーションが
苦手な人がマスクをする事により
自分に防御壁を作るというのが
どういう事かもわかった気がする。

元来、人見知りで
コミニュケーションを取るのが
とても苦手だった。

だった、というか今もそうである。

ここのところの日々の生活で
擦り傷が増えてしまい
このままではよくないと思い
膜をはった。

膜をはると感受性が減り
辛いと思う気持ちも減る。

しかし同時に嬉しい気持ちや
感動する気持ちも減ってしまう。

人は辛い気持ちや悲しい気持ちを
感じる感性を持つ事で
楽しい気持ちや嬉しい気持ちを
持つ事が出来る。

気持ちを無理やり抑えた気持ちで

何を感じ伝えられるんだろう。

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声をかける

“クロダくん”って
声をかけてもらえるのが
とても嬉しい。

だからおれも声をかけていきたい

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慈しむ事

あの時
自分はどんな気持ちだったんだろう。

大晦日
ある曲の製作のプリプロを行った。
どういう内容の詩なんですか?
と聞いた。
その答えを聞いた私は
薄れてしまった、というか
忘れてしまった感情を思い出す為に
実家に帰らねばと思った。

この日記にも以前書いたが
私が小さい頃にコロという名の犬を
飼っていた。
高校生の時にバイトから帰宅すると
コロは亡くなっていた。

家族全員泣いていたが
おれは涙を流さなかった。

今思うとあの時
自分は泣いてはいけないと
出来るだけ悲しい気持ちを
抑えていたのかもしれない

家族の気持ちを救う事は出来ないが
おれまで泣いてしまったら
支える人が居なくなってしまう

弱いなりに必死になっていた

時は経ちあの日の感情は忘れていた
実家に帰りコロの断片を見て
その気持ちや想い出が少し戻ってきた

今はもう居ないけどあの時
コロと共に過ごし生きていけたのは
とても幸せだと思った

それを思うと少し涙がでた。
おれはあの時より弱くなったのだろうか、
強くなったのだろうか。

コロが天国で元気にしていたら嬉しい

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フルート

音楽の神様はいつもずるい。

誰にも相談出来ない思いが溢れ、
それが昨晩溢れてしまった。
吐いてしまうのは仕方ないが
吐く場所は考えないとなって反省した

先日サマーソニックへ行ってきた。
目当てはRadiohead。
フジロック以来。
期待も高まっていた。

ステージが始まり興奮していた。
が、時間が経つにつれて
周りの人達の高いテンションとは
反対に向かっていた。

トムヨークのMC時のパフォーマンスに自分は疑問を覚えてしまった。

そして、creepは流れた。
会場は歓声で本当に地面が揺れていた

その時自分は
多分多くの人とは違う気持ちで
泣いていた。

本当にトムヨーク、Radioheadは
creepを演奏したかったのだろうか。

あまりにも勝手に自分は落ち込み
そしてライブを見届けた。

単純にcreepを演奏してくれて
嬉しい、ありがとう。と
思えなく音楽を穿って感じるように
なってしまったのかと。

生creep聴けてこんなに
落ち込んでるのおれぐらいだろうなと
思ったが、Genius P.J’sのサポートドラムの祢津くんとこの話をして
近い感覚を持っていてくれて、
この人とバンドが出来て良かったと
少し救われた。

表面張力ぎりぎりの
毎日を過ごしていたが、
そしてその水は溢れた。

迷惑や心配、メッセージをくれた
沢山の方々ありがとうございました。
そしてごめんなさい。

私が音楽をする意味のひとつを
くれているのをとても感じました。

やたら物が壊れる最近。
泣きすぎたのか、
脱水症状を起こし病院へ。
帰宅後壊れた水道管を大家さんと
治してると、
機材だらけのうちの中をみて
大家さんが
“こんな沢山の機械を使って音楽するなんて凄いね。
おれは音痴だから尊敬するよ。そうだ、君はフルートは吹くかい?と。
君は情熱と才能があるから
嫁いで居なくなった娘さんのフルートを
使わないより、使う人に届いた方が楽器も幸せだと下さった。
そしてまた泣いた。

大家さんはそこまで泣くか?
っていう顔をしていた。

音楽に挫折しかける度に
音楽の神様は少しだけご褒美を落とす。
いつだって音楽の神様はずるい。

明日の夜から
Genius P.J’sリリースパーティーの為
大阪、京都へ。

逢える皆様宜しくお願い致します。

それにしてもフルートの組み方は
まだわからない。

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初めてのhomesick

昔から逃げ隠れるのは
得意だった。

私は小さな頃
両親が共働きだった為
保育園に入れられていた。

“太陽”と名付けられたその保育園を
私はとても嫌いだった。

それは元々食が細く偏食だった私に
先生が無理やり給食を食べさせ
食べられないとみんながお昼寝の
時間まで一人給食を食べさせられた。

それがトラウマになったからだ。
未だに給食の香りがすると
あの嫌な感じを思い出す。

ある日から私の登園拒否は始まった。

母の出勤の時間に
保育園に連れて行かれる為
その時間までに
私は色々な所に隠れた。

ソファーの下や押入れ、タンスの上や
それに犬小屋の犬の後ろにも隠れた。

しかし私を散々探していた母も
見つける方のプロになっており、
毎朝保育園に連行されていた。

ある日いつもの通り隠れている所を
見つかり行きたくないと駄々をこねているとおじいちゃんが
“今から箱根に行くがセイイチも行くか?”
と言ってきた。

祖父はボロボロの車一台で
母におにぎりを2つ作ってもらい
色々な所へふと旅に出る人だった。

その日のおにぎりは3つになり
私はおじいちゃんと初めての旅に出た。

保育園に行かなくてよい嬉しいさと
初めて見る景色の新鮮さに
私はとてもはしゃいでいた。

箱根の民宿に着き
おじいちゃんとの夜。

急にやってきた両親がいない不安と
恐怖に私は大号泣しおじいちゃんを
大いに困らせた。

人生初めてのホームシックである。

散々泣き喚いた結果
おじいちゃんは私を連れて
家に帰ってきてくれた。
(天国のおじいちゃん本当ごめんね)

その夜両親の布団の間で、
安心して眠りについた。

歳を重ね日々を生きている。
大人になってもあの日の給食のように
逃げ隠れたいような事が沢山起こる。

でもあの日のように
強い風から守ってくれる両親は
近くにはいない。

強く生きていかなくては
いけないのだ。

そして今になって思う
両親の優しさを痛烈に感じる
この頃である。

いつかは誰かを守れる強さを
つけたいと思った。

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